えんどう豆を辞めることになり、相馬の仲間と相馬で新しい拠点を作ることにしました。それは、私が障がいを持つ子の親であり、えんどう豆に入ったのもその延長にあるからです。
長女は、ダウン症をもって生まれ、障がいについて面とむかって考えざろうえなくなりました。親の会を作ることになるのですが、出生のショックから歩みだすまで、以下、当時の気持ちを書いたものです。
初めての子どもが生まれて間もなく、わが子がダウン症であるようだと告げられました。
どんな障害なのか、どのように育っていくのかわからず、喜びよりも不安の方がいっぱいになり、大きなショックで、落ち込んでしまいました。
本などの情報をむさぼるように、読みあさりましたが、どんなものかイメージできません。
また家族や友達などに相談し、励ましの言葉やアドバイスを受けても、不安で、なかなか元気は出ませんでした。
しかし、障害があろうがなかろうがわが子は可愛いものです。
子どもと接しているうちに、日増しに愛情の方がずっと強くなっていきました。
それが治療で直らないものであり、事実を認めて、子どもと付き合っていくしかないと思いました。
誰かが何を言おうとも、私はこの子どもを授かったことを感謝こそすれ、不幸とは決して思えないのです。
子供がダウン症と告げられてしばらくして、福島にダウン症の親の会があることを教えてもらい、入会することになりました。親の会に入って思うことは、親同士が話すことで、いろんな人の考え方や接し、何かと勉強するが多いということです。同年代の子どもの状況を知ることで、気が楽になることもあり、他にもいろんな情報を得ることができます。
私は相馬という所に住んでいますので、親の会の拠点の福島市に通うのは、ちょっと遠いのですが、県内の各地域に、親の会があったほうがいいなぁと思うようになりました。
近いほうがいいからというのも理由ですが、ダウン症は1000人に1人くらいの割合で生まれ、どこに生まれてきても不思議ではないので、これから生まれてくる子どもとその家族のためにも地元に必要だと思うからです。
そうして出来たのが「こうまの会」でした。その後、建築の仕事を辞め、娘が小学2年の時に転職し、ビーンズで働くことになり、土日もイベントで販売や研修があって、休止状態に....。
障害者自立支援法の制定の年に、生活介護のぴーなっつができて、えんどう豆に異動となりました。その娘も今では、高校3年生。もうすぐ社会人になる時期になり、地元で楽しく働く居場所を作ることを目的としていたので、相馬に戻る決心をしました。えんどう豆での実践は、たくさんの事を教えてくれました。障がいがあると大変な面はあるものの、幸せに生きることもできるということ。人としての彼らの存在は、私を励ましてくれました。
震災の時、障がいのある人のために動いた時に、相馬の福祉を何とかしたいと思う人が少なからずいて、その人たちと集まることになりました。親であったり、支援者であったり、教師であったり、福祉の社会資源の少ない町でも、種をまいておけば、いつかは木になるかな?そんな訳で、相馬に新しい福祉の拠点を作る会ができて、福祉事業を始めるためにNPO法人みんなのしあわせプロジェクトの準備中です。わからない事が多くて、時間がかかっておりますが、一歩一歩、進んでおります。仕事、暮らし、子ども、そしてアートのある楽しい福祉がいいなぁと思っています。