フォーラム

  • 2012.03.31 Saturday
  • 23:44
 

ファーラムがあり、参加してきた。
南相馬ファクトリーの報告をしてきた。バッジの売り上げの報告はしたけれど、バッジに込められた意味の方が大事 だということが話したかった。思いがうまく伝えられない自分が悔しかった。ヤマト福祉財団からは、助成を頂いているので、お礼を言えたことは良かったで す。(写真は、福祉作業所と企業とのコラボのお話の様子)

 工賃の向上に向けての取り組みがメインテーマでした。震災と原発 事故から、学んだこと、感じたことは、ひとそれぞれ違いうのかもしれません。震災後、仕事をする必要もなく、自分に何の役割も与えられず、役にたたない自分がいて、人のために何ができるか動いていた自分がいて、 困っている人のために動いている自分がいた。組織とは関係がなく、スタンドアロンの自分。時間が経過する中で、障がい者の施設(えんどう豆)が再開してい く。そこにあったのは、人を守り、支えなくていかなくてはならないというプライドであったのだと思う。きっと南相馬ファクトリーの作業所の人たち、福島の 作業所も同じ状況だったに違いないと思うのです。福島に起きた出来事は、悲しい現実ではあるけれど、その現実を受け入れて、行動してきたことは、福島のプライドを生んでいると思いました。

 現在の福祉の考え方が、他の人と私の考えと違ったとしても、それはそれでいいのではないかと思う。私が私であることが、あなたがあなたでいることが大事で、正しいと思ったことに、正直に生きていればいいのだと思う。きっと、もう私は私の絵しか描けないのかもしれない。

 ファーラムには、えんどう豆、ビーンズ、ひばりワークセンターの利用者も参加してくれた。バッジのイラストを描いてくれた、えんどう豆の「くるみさん」は声をかけられ、うれしそうだった。震災後、体調を崩す人や、感情のコントロールができなくなってきている人が多くなっている。今のえんどう豆において、工賃の向上を目標にかかげる事はできない。現状として、お金が幸せに結びつかない。優先順位として、今はえんどう豆に来る人が、安定して生活することの方が大切な時期のような気がします。まだ、被災してのダメージがあるということかもしれませんね。




特注のバッジを使って、絆の字を書いてみました。



岸本剛さんによる写真展(コトノネという雑誌のカメラマンで、いい写真ばっかりです)




ただ今、販売中!  ビーンズのFくん、がんばれ!

ひばりワークセンター

  • 2012.03.30 Friday
  • 23:52
 


 ひばりワークセンターは、ひばり作業所、ポニーハウス、身友会が合併して、ひとつになった。ファクトリーの各作業所で作ったバッジを箱に詰め、発送しているのが「ひばり」さんだ。手をつなぐ親の会が母体の作業所で、工業製品の下請けの仕事や、彼岸花の造花などを作っていたので、バッジつくりの品質は高い。箱詰めの作業もきれいで、並べ方にもこだわりがあるようだ。ひばりさんへ行くと、笑い声が絶えなくて、それでいて、仕事を黙々とこなしている。

 元所長のMさんは、配送ミスがないように気を使っていて、プレッシャーで、週末はヘトヘトになると言っていたが、それでも生き生きして見える。息子さんも作業所を利用していて、同じようにほかの利用者への、愛情と責任があることが見てわかる。温かで、気持ちのいい環境で作業できる雰囲気は、彼女たちが築いてきたものだ。

(Photo by ザルツさん)

広島での小さなライブ

  • 2012.03.29 Thursday
  • 23:25


 広島市から北へ60kmくらい山の中の小さな町、大朝町で開かれた小さなコンサート。
原爆を投下され避難した経験のあるヒロシマの人が、フクシマのために、動いてくれた。
以下、コメントを紹介したい。

***************************************

私達は、山の中の小さな町でくらし、直接原発とはかかわりのない地域で暮らしていますが
近隣の島根原発や計画中の山口県上関原発から約100kmのところにあります。

しかし、広島と言うことで、原爆や原発、放射能といったものにはかなり敏感でもあります。
昭和20年8月6日の午後には、広島から多くの被爆したり逃げてきた人がいたそうです。
周辺でも何人も被爆者がいます。被爆2世もいます。

そして、多くの人が、直接、間接的に苦しんできました。
基本、原爆も原発も放射能も怖いものと言う意識が強く、福島や南相馬の現状を聞くにつけ、他人ごととは思えず、私達広島の人間だからこそできることがあるのではないかと思います。

時間がたつほど、だんだんと記憶は薄れてくるでしょうが広島は忘れません。
ノーモア ヒロシマ。ノーモア フクシマ。を合言葉に、これからも、つながっていきましょう。

***************************************

 おそらく、今、求められているのは、今、福島で起きていることを自分の問題としてとらえること。そして、思いやりを持って、問題に取り組むことだと思います。




奥野勝利さんのライブと、避難してきたご家族の方のお話があり、みんなで話し合ったそうです。






春近し

  • 2012.03.27 Tuesday
  • 23:31
 

 今週末、仙台で開かれる「ヤマト福祉財団パワーアップセミナー」に向けて、資料作りを行っていて、大忙し。震災後、がんばっている作業所の人たちの報告会がある。一度、参加して気合いを入れてもらわなくてならないと思っていたが、自分がプレゼンする立場になるとは、思ってもいなかった。きょうされんの理事さんたちも、南相馬に支援に来てくれていて、雲の上の人と思っていたのだが、いつの間にか、知り合いになってしまった。ちょっと不思議。

 写真は、ビーンズの支援員のKさん。写真撮影は、お友だちのザルツさんです。ファクトリー通信の2号に向けて、各作業所の支援員にスポットをあてて、記事を書いてみようと企画する予定です。震災後、彼女たちが現場を支え、身体を張った姿は美しいのです。彼女たちは意識しているとは思いませんが。彼女たちの視線は、利用者とともにあり、思いやりに満ちています。私はファクトリーの世話役をしていますが、ファクトリーのみんなの真摯な姿勢に、いっしょにやれると思っていました。

標準バッジ

  • 2012.03.24 Saturday
  • 22:08


 震災で安否確認のため、Googleのパーソンファインダーで私を捜してくれた友人はカメラマン。16年ぶりに会って、震災後、えんどう豆が再開の時に来てくれて、えんどう豆のみんなとバッジを撮ってくれました。ブログの中の、クオリティの高いのは、彼が撮影したものです。(刺激されて、私もがんばったけれど、そう簡単ではなかった。)今回、再び「南相馬」に入って、写真を撮ってくれました。HPに載せたいからと無理を言って、バッジの集合写真をリクエストしました。ならび方が雑だって?それは、私がやったからです。味です!(笑)

 福島にいなくても、現実を自分のものとして感じていれる人間はいます。そうした人が、バッジを買ってくれて、広げてくれていることに感謝します。震災後、ファクトリーの事業所の、つながりは強くなり、お客さんや外部の方とのつながりは多くなっています。こんな時だからこそ、いろんな人の力を借りて、やれるチャンスなのかもしれませんね。

ワークショップ

  • 2012.03.22 Thursday
  • 23:47
meeting.jpg

 南相馬ファクトリーで、バッジの生産に差がでて、大ブーイング。えんどう豆で受け付けたバッジの注文は、ビーンズが各作業所に振り分けているんですが、標準と特注のバッジがあって管理が大変なのです。それで、みんなで情報を共有しなくちゃならないだろうという事になり、注文の状況、生産管理のため「クラウド」を使って、簡単なアプリを自作しました。

 各作業所のパソコンに強い人を出してもらって、パソコンを持ち込み、ワークショップを開いたのでした。便利なような気もしますが、福祉の現場は、以外とパソコンの前に座っていられないので、それが心配です。でも、生産日報も、パソコンでするし、タイムレコーダーがあって、出勤と退社のボタンがあり、1日1回はアクセスするので、大丈夫かな。来週から、運用開始です。

 なぜ作業所が集まってバッジ事業を起こせたのか、会計的にみると独立採算の方が楽で、トラブルを避けることができると思います。現に自分の法人から、そういう声がありました。しかし、みんなが困っている状況の時に、自分だけという発想では、かえって支援を得にくくしてしまうのではないかと思います。そして、バッジを売ろうの発想では、この事業は失敗すると思いました。おそらく、求められているのは、販売することではなく、ふくしまを応援してくれる人の気持ちだったり、人の意識を変えていくことなのです。物質的には豊かで、モノがあふれ利便性だけ求めた社会に対するひとつのメッセージであると思っています。

ぴーなっつの石田さん

  • 2012.03.21 Wednesday
  • 21:50

今月の「きょうされん・福島支部」の会報に、「ぴーなっつ」の石田さんの手記が載った。
熱い思いが伝わってくる記事だったので、本人に了解をとって転載させていただく。
全国から入ったボランティアさんが、石田さんのファンになって帰っていった。



 震災後の原発事故により、南相馬市の住民が新潟に避難することなった最後の便を見送った後、無人化した鹿島の街を通って、自分も北へ避難するつもりでした。
鹿島橋を通って街へ入った時、家に入ろうとする腰を曲げたお年寄りが目に入りました。 

「お年寄りを置いて、自分だけ逃げていいのか」
自問しました。 自分には、一緒に避難する両親や妻子もいず、このまま残って最後に出て行こうと決心しました。

 3月末、消防団で活動している時、ぴーなっつから再開に向けて活動するので来てくれと連絡があり、行ってみると、神奈川きょうされんの方がドラム缶や携缶でガソリンを持ってきてくれていました。当時は、首都圏でもガソリン不足で、南相馬ではガソリンスタンドも並ばないと買えない時期で本当にありがたかったです。それからきょうされんから物資や人的ボランティアなど支援を現在まで継続して受けています。

 4月22日にぴーなっつは支援のおかげで再開できました。その後、ぴーなっつは、きょうされんが参加しているJDF(全国的な障がい者の団体)が行なった「南相馬市の障がいを持った方の避難の状況の調査」の拠点となりました。
私が避難を思いとどまった老人の方のように、体が不自由で避難できない方、避難できたとしても避難所ではとても生活できないから避難しないという方などが、調査で出てきました。

 その時、3月下旬に塙町に、ある家族の避難をさせるため、市役所の福祉課に相談しに行ったとき、避難所で身体が弱い方を避難させたいがどうしようもできないと職員の方々が真剣に悩んでいたのを思い出しました。実際、ぴーなっつで再開前に避難所に避難している身障の方の入浴支援をしており、本来保護されなければならない方々が残ってしまった現実を肌で感じていました。

 震災後、お店屋さんがどこも開いておらず、開いても長蛇の列でした。ライフラインが分断された状況で、障がいをもっている方の苦労は計りしれないものだったと思います。障がいをもっていない方でも当時、小麦粉を手に入れるにやっとで、手に入れて久しぶりの天麩羅を食べた時は、涙が出て止まらなかったということでした。仙台ではガス配給がままならず、コンロや風呂が使えないところが多数あったようです。

 南相馬市では、残っていても困難な生活、避難しても困難な生活ということで、住民は大きな決断をしなければなりませんでした。どの選択をしても心の安住はありません。南相馬の住民はこれから過去と対話をしながら未来にむかっていかなければなりません。
私たち南相馬の住民は、悲しみや悔しさを背負いつつも、前を向いて進んで行かなくてはならなかったのです。そして、私たちも、障がいをもった仲間のための居場所を再開することとしました。

 南相馬市の利用者の大半が避難していましたので、ぴーなっつは当初、避難できず自宅でいる方もしくは北の相馬市・新地町の人が利用していました。職員も大半が避難しており、人数を制限して、時間を短縮にしての再開となりました。大変な時期だったので、利用者の方に安心してもらえるように楽しい雰囲気を出そうと努力しました。そんな時、JDFから派遣された支援員の方が、みんなを励ますための催し物を開いてくれました。手品や一発芸、歌など披露してくれました。それが今日まで定例となり、毎回お楽しみ会として、さぽーとセンターぴあの3事業所、ぴーなっつ・えんどう豆・ビーンズのみんなが集まる場となりました。みんな毎回楽しみにしています。

ゴールデンウィークを過ぎると、ぼちぼちですが、店屋さんも開いてきて、ガソリンも通常に手に入るようになりました。JDFの方は、南相馬の「あじくら」という中華屋さんが好みでよく行くようになったのもこのころからです。後に、ぴーなっつの近くの「円満」というラーメン屋が再開するとそこも行くようになりました。しかし、どのお店も閉まるのが早く、今現在(H24.2.29)以前の営業時間に戻っている店は2割もない状態です。
 
 夏になるころには、かなりの方が戻ってきました。サービス提供の面で、入浴サービスが調整となり、震災以前は希望通り入浴できていたのに、半分ぐらいの入浴となりました。
現在も調整が続いており、本当に利用者の方には申し訳ないと感じています。また、活動面では、以前は散歩や野外活動があったのですが、原発事故の為にできなくなりました。草むしりが好きな利用者は、長靴とごみ袋でアピールするのですが、聞き届けてもらうのに謝るしかありませんでした。一度ドライブに行ったのですが、美しい向日葵畑の中、車を止めて、外に利用者さんを出すため、放射線測定をするとあまりの高さに、いそいでドアを閉め車を走らせました。

 そのような状況なので、当地で行われる相馬野馬追いは、縮小した形になり、30キロ圏で行えず、地元住民としては悔しい思いをしました。毎年利用者の方も楽しみにしていたのに残念です。送迎で、野馬追いの祭事場の「雲雀ヶ原」を通るたびに荒れた様子をみるにしのびなかったです。広大な敷地を除染して今年は開催するとの話ですが、まだ行ってはいません。
秋になり、職員から、暗い気分を一掃しようということで、お昼ご飯の前に、みんなで歌を歌うようにしました。坂本九さんの「上を向いて歩こう」を復興に向けて元気に歌っています。外に出られない分、体操を以前より、大目に取り入れました。みんな積極的に取り組んでいます。JDFの方へのお土産に福島の人が考案した「やきとりじいさん体操」のDVDを差し上げているのですが、ぴーなっつでは見た目よりハードな体操なのでやっておらず、全国的普及はJDF支援員の皆様に託されています。

 今年も、南相馬では作付けができず、米を作ることができません。うちでは柚子ができるのですが、放射能の為、収穫しませんでした。支援等お世話になった方へ本当は送りたかったのですができません支援ばかり受けて何も返すことができない自分に嫌な気分になるときがありますが、いつか返すときまでと思い、今は利用者の方へと気持ちを切り替えするほかありません。

 まだ何も見通しが立っていませんが、広島・長崎そして戦後の日本を再生した先人の方たちが出来たことを少しでも近づけるよう努力していくしかありません。震災後直ぐに、消防活動で沿岸部を捜索している時、戦後の焼け野原を思わせる光景を見ました。原発事故で、無人化した街も見ました。

 心が折れそうな時、万葉集の歌を見ました。「かにかくに 人はとやかく 言うけれど 我は織らなむ真白の布を」という歌です。「いろいろとやかく人は言うけれど、自分が出来ることをただひたすらするだけ、心を正直に持って」という歌です。

 震災から一年、自立して自分たちでやっていかなければと思いつつ、支援に頼る日々が続いています。震災や原発事故の経験を風化させず、昇華して、いつか支援なされた方々に恩返しができるよう微力ですが頑張っていきます。

 障がいを持った方が、活き活きと生活できる南相馬、復興へ向けて活動をしていきたと思っています。今後もどうか、ご協力お願い致します。
全国から温かい支援をいただきました。ありがとうございました。また、中通り、会津地方の方にはいろいろ受け入れいただき言葉もありません。
大変な状況ですが、乗り越えていき、皆様へ恩がえしできるよう邁進していきます。


特定非営利活動法人さぽーとセンターぴあ
    デイさぽーと ぴーなっつ
主任 石田宏之







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消えない火とふくの島(その3)

  • 2012.03.20 Tuesday
  • 23:57


消えない火とふくの島(その3)


ふくの島から来たおんなの子は、ひとりぼっちじゃなかった。
おんなの子が、笛を吹けば、子どもたちが集まって、いっしょに歌ってくれた。
友だちもできて、寂しくはないように見えた。
でも、おんなの子は、
 「お父さんに会いたい」「しまに帰りたい」と願いを込めて吹いていた。
それを聞いたお母さんの目から涙が流れた。

おとうさんは、ふくの島で、海のしごとができずにいた。
船の準備をしながら、お友だちのしごとを手伝っていたが、
ある日、しごとから帰ると、誰もいないはずの家から、音楽が聞こえた。
おんなの子の吹く笛の音だった。

「おとうさん!」
おんなの子は、お父さんの胸に飛び込んだ。
久しぶりに、家に灯りがついて、元気な声が聞こえてきた。
家族のみんなで、おかあさんの作ってくれたごはんを食べた。

おんなの子は、大きな島での出来事を話した。
おとこの子に笛をもらったこと。
つらいこともあったけど、友だちもできて、みんながやさしくしてくれたこと。
みんながお金をだして、ふくの島に帰ることができたこと。

おとうさんは、おんなの子に言った。
「あしたを信じて、みんなで、ふくの島で暮らそう」
おんなの子は、「うん」とうなずいた。

ふくの島では、消えない火が燃え続けている。
それでも、みんなで幸せに生きることができると信じてる。
おんなの子の笛は、希望となった。

南相馬市民の歌

  • 2012.03.18 Sunday
  • 22:19


 ほんとうにいい表情をみせてくれる研修生たち。一週間x3回、神奈川からボランティアに来てくれたKABAちゃん。「えんどう豆」の一員のようですね。すっかり、和んでいて、いい雰囲気を作ってくれました。ほんとうに、ありがとうございます。JDFのボランティアさんには、昨年の6月からですから、9ヶ月間、お世話になってきました。そして、もうしばらく、お世話になれるとの事。感謝の言葉しかありません。

 バッジを箱詰めしてくれている「ひばりワークセンター」に納品しにいきました。仕事が終わって、「南相馬市の歌」が流れ、何人かが曲を口ずさんでいました。震災後、市民を元気づけるために作られたそうです。震災から一年経って、元気を出して、前を向いていこうという時期になったのかもしれませんね。みんなのとって、大事な歌になっているようです。

http://www.youtube.com/watch?v=rlUTyDIatW8&feature=related

MJCアンサンブルの合唱です。合唱部のない学校の子供たちが集まった女性コーラスです。



ブレイク中

  • 2012.03.15 Thursday
  • 23:23
 


 少しづつ、温かくなってきました。デッキでブレイク中です。えんどう豆のこの風景が好きなんですが、ちなみに、今年も、南相馬市では、米は作れないそうです。田んぼは季節を感じさせてくれる、えんどう豆の一部だったのです。

 さて、すっかりおじさんになって、パソコンも最新のものを追いかけていかなったが悪いのか、トラブル続きです。アップルのアドレスを使っていていたので、メールが、i-cloud になるというので、アップデートしたら、OSが古くて対応できない。サービスセンターに問い合わせても、冷たい対応で、そんな事、考えてもいなかった様子。さらに前のメールソフト(Mobile-me)に戻れないという最悪の状況。サブ機のWinのXPでも動かず、パソコンを買うはめになってしまった。機能が向上するのはいいけれど、逃げ道くらい作っておいてほしいです。おまけに、東京で迷子にならないようにと買ったi-phone。故障して、交番で道を聞いていく羽目になってしまいました。連絡先がわからないので、仕事にならないし、困ったもんです。私も時代との折り合いを付けるのが難しい世代に突入ということでしょうか。

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