当時の話 塩むすび

  • 2016.03.08 Tuesday
  • 03:00
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 パッと見て障害がわからない発達障害の子供たちは避難できないでいる人が多かった。避難所で共同生活ができない。また避難先で児童の放課後支援があるかどうかがわからない限り、どこに避難していいのかわからなかった。療育等支援で相談を行っていた相談員は、障がい者の入所施設ごと避難したために、在宅に障がい児の支援はできなかった。相談員の全国のネットワークを使えば、避難する時に、どれだけ有効なことだったろうか。 

 原発から30キロ圏内は食料が入ってこなくなり、全国から入ってきた支援物資を障がい児に食料を届けようとしたが、支援学級の療育手帳を持たない発達障がいの情報は得られない状態だった。当時、私は養護学校のPTAの副会長で会長代理であり、全障研の支部で地元の障がいを持つ子供の情報を持つ支援学級の先生をしていたKさんを訪ね、どこに誰がいるか聞いて、子供たちに支援物資届けたりもした。 

 学校を訪ねた時、原町区など20キロ圏内の学校は、30キロより外の鹿島区の小学校に同居しており、1校に7校が入って勉強している所もあった。訪ねた学校では、支援学級は体育館の準備室で授業をしていた。南相馬市の給食センターが被災して、給食が塩おむすびと聞いて、友達の海苔やから20万円分の海苔を仕入れ、南相馬の小学校すべてに差し入れをした。その時、協力してくれた先生のKさんは定年となり、今度できる工房もくもくのサービス管理責任者として働いてくれる。まったく人につながりとは、おもしろいものである。

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