当時の話 塩むすび
- 2016.03.08 Tuesday
- 03:00
- 振り返り
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南相馬市は、小高町、原町市、鹿島町が合併しできた市で、
市社協は、災害発生時に必要となる要援護者名簿を持っていた。
管理者から社協の職員に、職員に2人1組で、自宅に戻り、
南相馬市の就労継続支援B型の福祉事業所の「きぼうのあさがお」は、海から約3キロほど離れた鹿島区にある。3月11日も、メール便や下請けの基盤の仕事、そして翌日に行われるはずだった社会福祉協議会が主催のボランティアフェスティバルのお弁当の食材の準備を行っていた。午後3時前、大きな地震が発生。隣の家の瓦屋根が落ちるのが見えた。利用者は机の下に隠れたり、柱に捕まったりして、人や建物に被害はなかった。
揺れが少し落ち着いて、コーヒーでも飲もうかと言っていた時、知り合いのサーファーが「大きな津波がくるぞ!逃げろ!」と飛び込んできた。メンバーと職員は一緒に、何台かの自動車に乗って、高台の桜平山に避難した。その後、高さ9mを超える巨大津波が到達。田んぼや畑を飲み込み、海岸の近くにある集落は消え、津波は「あさがお」の500m手前まで押し寄せていた。自宅に帰る人は戻ったが、一人暮らしの人とグループホームの人は、職員と共に避難所に午後9時過ぎまで過ごした。余震が続き、不安な夜が過ぎていった。
午後3時前、帰りの準備でフロアーを掃除していた頃でした。大きな地震でしたが、普段、避難訓練をしていたように、利用者はテーブルの下に隠れケガはありませんでした。テレビから津波の情報が流れ、最初は1mだったのが3m、10mと次第に大きくなっていきました。午後4時の送迎の時間となり、いつものように送迎の職員が来て、理事長の青田さんから、送迎は職員が2名付くように指示されました。万が一の想定の時、利用者の対応に困らないようにとの配慮でした。
帰りの送迎のルートであった鹿島区の国道6号線は、海岸線から3キロ以上あったのですが、津波が押し寄せました。幸いにも、送迎車は時間差があってそこを迂回し、利用者を保護者に引き渡すことができました。道路が壊れ、渋滞が起きて、職員がぴーなっつに戻ったのは午後8時頃だったと言います。地震、津波で停電し、コンビニでは食料の買い占めが始まっていました。ぴーなっつは、市街地にあるのですが、施設から1キロほど手前まで津波は押し寄せました。家が流されてしまった利用者もいました。 国道6号線で浸水した場所には、震災から2年が経った頃に看板が建てられました。福島は宮城に比べると、津波に警戒する人は少なかったように思います。地震が続き、集落が消えた所がある状態で、津波がまだ来るかも知れない状況でした。連絡手段も制限される中、送迎して利用者を保護者に引き渡すだけでも、大変な労力であったと思います。